家はあると言ったではないか。一雫ライオン「二人の嘘」感想。
「二人の嘘」読了。
読んでいて自分の呼吸が浅くなったのを感じたのでメモ代わりに記しておきます。
(以下、ネタバレを含みます。)
「どちらにせよ、俺が殺していました。」
すべてを終えた蛭間は育った施設の園長先生にそう告げた。
タイトル「二人の嘘」からして、片陵判事と同じように恋人を庇っているのか?それが二人の嘘ということなのか?と考えていた。
しかし蛭間に恋人はおらず、妹の存在が明らかになると、私の中でひとつの嫌な予感が頭を過ぎる。蛭間が庇っているのは妹だと確信した瞬間から、なぜ20歳そこそこの女性が大の男に鋭利な工具を向け、致命傷を負わせなければならなかったのか。
考えられる理由はひとつしかなかった。
正直この嫌な予感は外れていてほしいと願うも、女性である自分が直感的に感じた嫌な予感は当たってしまう。
私は次第に呼吸が浅くなり、手は震え出した。
言葉を交わさなくても、たとえ車両越しでも気持ちが通じ合うことがあるのだと知った。きっとそれはなによりも儚くて尊くて崇高なもの。二人以外に知る者はいない。
二人の大切な時間を茶番劇というのは違うと思う。互いの心が満たされる二人だけの時間を、なにも知らない他人ごときが語れるものか。
いつも数メートル離れて歩く二人。その距離感が二人の適切な距離。しかし二人の間には距離感では測れないものがあることは明確な事実だった。
"一本の映画の感想を言い合うくらい"とは、きっと長くても30分程度の時間であろう。それが二人が交わした最初で最後の会話らしい会話。
作中、二人はたったの一度も名前を呼び合うことはなかった。
「──むきあってしまえば、目を見てしまう。目を見てしまえば、真実を語りたくなってしまう──」この真実は誰にも知られてはならない。この真実の意味するところは、言葉はなくとも彼の行動の端々に現れていた。
旅に出た蛭間は「でもどんどん、死への決意は揺らぎました。あなたがいたからです。」と礼子に書き残している。彼は最後まで礼子のことを考え、思いやり、前日には帰りの飛行機のことまで礼子に話している。
旅先で教会に立ち寄った際、彼は胸に十字を切らなかった。胸に十字を切る動作はイエス・キリストへの信仰表明として行うものらしい。彼はカトリックである。カトリックでは自殺は罪と見なされる。彼の心はもう既に決まっていて、このときイエス・キリストへの信仰を断ったのであろう。
彼は最後の最後まで礼子にも読者にも死の気配を感じさせなかった。
また彼は礼子への手紙に「あなたの射るようなまなざし。わたしはあんなに、まなざしを受けたことはありませんでした。そんな人生ではありませんでしたから。」と書き記している。
彼の言う通りたしかにそうであったのかもしれない。しかし少なくとも、妹と過ごした日々、礼子と過ごした日々は彼にとって温かく心が満ち足りた時間であったのではないかと思う。
どうかそうであってほしいと願わずにはいられなかった。
「恋で終われば、この悲劇は起きなかった。」
そんなセンセーショナルな帯に魅かれて手に取ったこの小説。普段は純文学を好む自分にとって現代作家が書く本を手に取ることは稀であった。
しかし私はその帯の一文に強く惹かれた。読み進めていく度にどんどん次のページが気になって仕方がなかった。438ページにも及ぶ長編小説を次の日もまた次の日も時間を見つけては読み進めた。
そして物語の章末、その悲劇の正体がなんなのかを知る。
例えようのない感情が私を揺さぶった。
一言では表すことのできない感情が涙となり堰を切って落ちた。
私は彼の死を、それはそれは、とても悲しく思った。
彼の生い立ちや現在置かれている環境も、木造の五畳にも満たない部屋で死について考えてながら暮らしていたことも、歳の離れた妹を思う気持ちも、考え抜かれた行動も、裁判所の門前に立ち続けていた理由も、礼子と出会い、死への決意が揺らぎ、その気持ちを抱えながら礼子と過ごした日々も、そのすべてを思い返し、あまりに悲愴な結末に思わず落涙した。
私もまた礼子と同じく彼に惹かれていたのかもしれない。
正直、私は蛭間が礼子のことをどう思っているのかわからなかった。
男女が身体を重ねるということは必ずしもお互いが同じ気持ちで想い合っている、と思うほど子供でもなかった。
特に男女間についての本音は、当人同士ですら不明瞭なことが多い。
蛭間は実に優しく聡明な男だ。しかしいつ何時も聖人ではないだろう。彼だって普通の成人男性なのだ。
だから私は礼子の待つ東京駅八重洲中央口で彼の姿を確認するまで、彼の本当の気持ちがわからなかった。
しかし思い返すと、今までの礼子との物理的距離こそが、蛭間の礼子に対する思いやりや好意以外のなにものでもないことは明らかだった。
蛭間は一言でいえば質実剛健な男だと思った。
いつも冷静に物事を判断し、礼子に対しての気持ちは決して表には出さない。むしろ彼の言葉は礼子からすれば拒絶に近いであろう。けれども礼子に対しての気持ちが自然と行動となって現れている。どこまでも優しい男だ。一般的に考えて、危ないからという理由だけで自分の裁判を担当しただけの女性を、人目につかぬよう後ろから送っていくことはしないであろう。
電車で女性が人混みに潰されないように立っている蛭間の描写から、彼は元々そういう男性なのだろうと思っていた。それは間違いない。彼は誰が相手であろうと、それが相手に伝わらなくとも、そういった優しさを行動に移すことができる男だ。
妹のことがあったから、夜に女性をひとりで帰すことをなおさら躊躇ったのもあると思うが、礼子に対してのそれは特別なもので、あの距離感が彼にとっての好意だったのだろう。
礼子は蛭間より10歳程度年下であり、時折蛭間に恋焦がれる女性のか弱さや脆さを見せている。誰もが想い人に対して抱く感情を、彼女も例外なく持ち合わせている。そこが人間らしく、また女性らしく、自分とは似ても似つかない礼子に対して共感、感情移入した。
夫や義母との関係もうまくやっている。こんな女性を人は良妻と呼ぶのであろうと思った。
二人の共通点として生い立ち以外に、礼子も蛭間もどちらも強く聡明な人間という印象があった。
全体を通してそんな印象があったが、それは種類の異なる強さ、聡明さである。礼子は社会的な強さを持つ聡明、蛭間は精神的な強さを持つ聡明である。
二人は社会的に見れば対角に存在しているような者同士である。
しかし二人はとてもよく似ていた。
二人には"家"がなかった。
しかし、互いに家はなくとも二人の心はいつも同じところにあった。
心が通い合う家は確かにあった。二人が出会い、言葉を交わしたそのときから。
表紙に描かれた女性は礼子であろう。
隣にいるのは蛭間。二人が隣同士並んだのは宇出津港だけ。きっとその場面だ。
二人がついた噓を知り、頭の中で様々な感情が拮抗し、私はしばらくの間身動きを取ることができなかった。
何日も何日もこの小説のことを考え、感想を下書きに更新し続けた。
まるで自分自身に起こったできごとのように登場人物に感情移入し、悲しくやるせない気持ちになったり、暖かい気持ちになったり、時折涙を流したりした。
そのくらい私にとってこの物語は衝撃的だった。
その後、おそらく礼子は離婚した。裁判所も辞め、政界への出馬もしなかった。
カトリックでは「死は永遠の命の始まりである」と考えられているらしい。
それに倣えば、蛭間は宇出津港で永遠の命が始まったのだ。
また彼の妹もそうであろう。
礼子は彼と過ごした金沢で、彼のいる宇出津港で、旅の途中思い描いたように居酒屋でアルバイトをしながら、彼の近くで暮らすのかもしれないと思った。
きっとそちらの方が彼女にとって幸福なことなのかもしれない、と。
蛭間、奈緒、二人の安らかな眠りを祈るとともに、これからの礼子の新しい人生が幸福であってほしいとの願いを持って、私の感想は終わります。
2022年5月27日